今日は、行き先は自分で決めよう、ということを書きます。

そんなことは当然だ、と思うかもしれませんが

本当にそうでしょうか?

人生の行き先は自分で決めよう、と言い換えたとき、自分の行き先がはっきりしている人がどのぐらいいるでしょうか?

「人生の行き先」は、「自分軸」「人生の哲学」あるいは「人生の情熱」と言い換えることもできます。

なぜこれをはっきりさせるのが大事か、お話します。

社会人に答えは与えられない

多くの人にとって学生時代までは、自分の外側に答えがありました。答えを持っているのは、先生だったり、問題集の後ろに付いている解答集だったりです。難しい入試にも、ちゃんと解答があります。

しかし、社会人になると様子が変わります。仕事には答えがあるようで、ありません。

5年経つと驚くような変化があったりします。たとえば、車の自動運転。5年前に児童運転の車が公道を走るなんて、想像もしませんした。

こんな時代、あなたの会社や上司は、もはや答えを持つことができないのです。

では、何を指針にするのか。

究極は、自分自身を指針にするしかありません。

だから「人生の行先」は自分で決めよう、となるのです。そうすれば、右に行くか、左に行くか選択を迫られたとき「人生の行先」に近い方を選ぶことができます。

「人生の行先」を考えるのは何歳がいいか?

最近、このことが話題になりました。順調に生きてきた人には、それは35歳~40歳ぐらいではないだろうか?という話になりました。仕事も一通りできるようになり、部下も育ち、さて、という頃です。

一方で、私は18歳や81歳でもいいと思っています。

たとえば、学校になじめなかった人などは、10代のうちに「人生の行先」を考え始めます。結婚や出産で生活が変わりやすかった女性(今はどうなんでしょう・・・)も節目ごとに考える機会がありました。

それから81歳で「人生の行先」を考え始めた、という方の話も聞きました。これもステキです。

つきつめると、かの孔子も言ったように「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」なのでしょう。

今、大学で学生さんたちに「人生の情熱は何か?」とたずねています。「わからない」「難しい」「考えたことがない」という学生さんがほとんどです。しかし、中には、すでにはっきりした情熱をもっている学生さんもいます。

どちらの状態でもいいと思います。そういうことに意識を向けつづけると、いつか自分の中から答えが立ち昇ってくるように思います。自分の中の答が鮮明になれば、それがあなた自身の「人生の軸」となり、迷いが減ります。

すぐに見つからなくてもよいので、自分自身の「人生の行先」「軸」「情熱」に意識を向けてみよう