道元と弟子の空想会話を紹介します。
ある時、弟子が師の道元に聞いた。
「人間は皆仏性を持って産まれていると教えられたが、仏性を持っているはずの人間に幸せな人とそうでない人がいるのですか」「教えてもよいが、一度は自分でよく考えなさい」。
道元の答えに弟子は一晩考えたがよく分からない。翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。
「昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えてください」
「幸せになる人は努力する。そうでない人は努力しない。その差だ」。
弟子は、ああそうか、と大喜びした。
だがその晩、疑問が湧いた。仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして努力する人、しない人がいるのでしょうか」
「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ」。
弟子は大いにうなずき、大喜びして家に帰った。
しかしその晩、またまた疑問が湧いた。仏性のある人間にどうして志がある人とない人が生じるのか。弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。道元は言う。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ」
この会話の元になりそうな道元の言葉が「正法眼蔵随聞記」にあります。
道を得ることは、根(こん)の利鈍にはよらず、人々(にんにん)皆、法を悟るべきなり。精進と懈怠(けだい)とによりて、得道の遅速あり。進怠の不同は、志の至ると至らざるとなり。志の至らざることは、無常を思わざるなり故なり。念々に死去す。畢竟(ひっきょう)じて且(しばら)くも留まらず。暫(しば)らく存ぜる間、時光を空しくすごすことなかれ(水野弥穂子訳註『正法眼蔵随聞記』岩波文庫本、35頁)
ここで「幸せ」というのは、一時的な感情ではなく、もっと深い、永続的な、独りよがりではない「幸せ」です。今、世の中でいう「ウェルビーイング」に近いと思っています。
そのような「幸せ」に触れる人には、生死に根差した「志」がある。その志の先には、原始仏教の「八正道」における「正見」があるのではないかと、私は読みました。
道元にはときどき驚かされます。英語でマインドフルネスやEQなどを学んでいて「この名言を書いた人は誰?」と思って調べると、それは道元だった、ということがよくあるのです。