唯識(ゆいしき)とは
今年もいろいろ学んでいますが、
そのうちのひとつが唯識です。
唯識は、
きっとそのうち
3分禅コーチングのサービスに
役立つだろうという
直感があります。
今はまず、
唯識について学んだことを
ここでアウトプットしていきます。
テーマは「唯識とは何か?」
唯識とは、仏教哲学・心理学の体系です。
ブッダが仏教をスタートして、
何百年も経ってから
「世親」という人が書き残した経典です。
経典、なんですが
今風にいうと、
仏教をベースにした
哲学や心理学にあたります。
なぜ突然、唯識なのか?
これまでの私は、
マインドフルネスの源流である
原始仏教系の心理学や、
禅の実践で
十分満足していました。
しかし、
インテグラル理論や成人発達理論を
日本に紹介したことで有名な
加藤洋平さんが
「唯識の方が、
インテグラル理論や
成人発達理論より
もっともっとすごい!」
と、とても熱い!のです。
最近話題の「赤い本」を出版された
加藤さんが、そこまで言うなら
きっと、今は学びドキなのだろうと
思ったのです。
*「赤い本」についてはこちら
唯識が成人発達理論やインテグラル理論よりすごいところ
唯識は、ユング心理学の「シャドー領域」を詳細に、深く、扱っている点において、成人発達理論より優れている、と加藤洋平さんは話しています。
たしかに、成人発達理論では、シャド−はほとんど扱いません。ラスキー博士の本でも「葛藤がある」とか「プレッシャーを感じる」程度のごくさらっとした扱いです。
これに対し、仏教は『煩悩』という言葉でシャドーを日常的に扱いますし、さらに唯識ではその精密度がぐっと上がります。
実践の面では、成人発達理論は、学問であるため、どうしても実践領域が手薄になるのに比べ、唯識をはじめとした、仏教系の思想では、たくさんの実践方法の提案があるのも特徴です。
インテグラル理論との比較も興味深いです。
ます、インテグラル理論では、シャドーを扱いますが、そのあつかいの精緻さ深さは、原始仏教、上座部仏教、唯識仏教の方がさらに深まります。
また、インテグラルの理論を提唱したケン・ウィルバーは、ひろく、さまざまな思想・哲学・宗教を学んで、メタ理論を打ち立てたことで知られますが、それでも「唯識を学んだ形跡がない」と加藤さんはいいます。
唯識仏教には、ある特徴があります。それは「無我」にこだわらない、という点です。
私たち日本人は、仏教とか禅とかいうと、すぐに「空(くう)」とか「無(む)」とか言いたくなりますが、唯識では「空」や「無」にこだわない、という絶妙なスタンスををとっているそうです。
これは、私が、原始仏教に根ざしたマインドフルネスを学んだとき、「マインドフルネスの実践では『空』や『無』を、強調しない!」ことに驚いたものですが、そのことを思い出させます。「空」や「無」は究極の真理かもしれませんが、そこにこだわらない態度は、普通の人にとって、とても取り組みやすく、無理がなくて、「つくづくいいな」と感じてきました。
一つ、インテグラル理論にも長所があります。それは世界を「四象限」でとらえる視点を提供してくれることです。このとても便利な「四象限」の視点は、唯識にはない、とのことでした。
唯識とは「いかだ」のひとつ
仏教全体の中で、唯識を位置付けようと試みると、唯識とは「いかだ」のひとつであると言えます。
「いかだ」というのは、川に浮かべる、あの「いかだ」です。
もちろん「いかだ」は「たとえ」ですが、仏教には有名なたとえ話があります。
「いかだ」のたとえ
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、
こだわりの心から開放されるために、”筏のたとえ”を説こう。
ある時、道行く旅人が大河に出会った。
こちらの岸は危険であり、向こうの岸は安全である。しかし、船も橋もない。
そこで、旅人は考えた。
「大きな河だ。でも、船も橋もない。
葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡るしかない。」
そこで、旅人は、葦や木や枝を集めて筏を作り、手足で漕いで渡った。
次に、旅人は考えた。
「この筏は大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。
この筏は捨てるには惜しい。担いで道を歩いて行こう。」
さあ、この人は、適切な行動を取ったと言えるであろうか?
弟子たちは「いいえ」と言った。
仏陀は続けた。
では、どうするのが適切か考えてみよう。
「この筏は大変役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることが出来た。
だが、この先は不要である。この筏を岸辺に置いて道を歩いていこう。」
このような判断こそ、適切な判断である。
修行者たちよ、絶対的な安楽を得るために、
こだわりの心から開放されるために、私は”筏のたとえ”を説いた。
どうか修行者たちよ、このたとえの意味をよく理解せよ。
正しい教えですら捨て去るべき時がある。
誤った教えであれば、なおさら捨て去らねばならない。
(パーリ語「中部経典」寛照意訳)
私は、唯識は、智慧や悟りに至るための「いかだ」のひとつだ、と理解しています。
インスピレーションを与えてくれる道元の言葉も、参考にしたい
曹洞禅をはじめた鎌倉時代の道元は、おそらく唯識はそんなに学んでいないと思います。理由は、彼が比叡山延暦寺の出身であり、延暦寺は唯識を否定したと言われているからです。
とはいえ、仏教という大枠は同じだし、道元の言葉は、私に大きなインスピレーションを与えた言葉でもあるので、これからの唯識の探究にとても役立つと思い、紹介します。
まず、道元の言葉を英文で紹介します。この英文は、私にとって衝撃でした。その後もずっと、私のインスピレーションの元です。
To study the Way is to study the self; to study the self is to forget the self; to forget the self is to be enlightened by the hundred thousand things.
道元
仏道をならふとは、自己をならふなり。自己をならふとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるとは、万法をもって証せらるるなり
ところで「万法をもって証せらるるなり」の解釈ですが、私は次のように解釈したい、と個人的に思っています。(一般的には違うみたいなんですが)
「万法」=物質的、精神的なすべてのもの、
「証する」=悟る
この「自己をならい」はじめて、「万法に証される」までの道のりを、詳細に記述したのが「唯識」だと思うと、私にはとてもピッタリくるのです。
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