映画『君たちはどう生きるか』を観て、シャドーと向き合い、死と再生をくぐり抜けるとは、どういうことかについて考えた
遅まきながら、宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を観てきた。知人の評価が高く、それなら観てみたいと思っていたのだ。しかし、近所の上映館がなくてなかなか行けなかった。ところが、この映画が海外で高く評価され始め、賞まで取り始めた。すると、近くの映画館でも鑑賞できるようになったのだ。よかった、よかった。
ところで、私は映画観るときは、かならずパンフレットを買う。作り手がどんな思いでこの作品を作ったのが、その背景にとても興味があるからだ。このブログの写真は、そのパフレットの表紙である。
そこで、ここでは、この映画をみて考えたこと、感じたことを書いていく。もしかするとネタバレになるので、これから観る予定の人はご注意くださいませ。
私の興味はまず、引退宣言をした宮崎駿監督(83 才)が、今になってこの映画を作ったのは何故?というところにあった。
パンフレットの一読後、私が思うのは、彼が今まで表現してこなかったものを表現したいと思ったのだろうということだ。ひとことで言えば、自分のシャドーと向き合う作業をストーリー化した、ということだ。シャドーとは心理学者のユングが言い出した心理学用語で「意識から排除されて無意識に追いやられていた人格の要素や側面」をいう。
この映画は自分のシャドーに向き合うために『冥界』へ行くというストーリーであった。『冥界』というのは、私が受け取ったイメージである。日本神話の黄泉(よみ)の国のイメージである。日本神話では、イザナミが死んでのち、下っていく国でもある。映画で、印象的なのは3つある。まずは『冥界』のイメージの豊かさである。次に『冥界』のイメージの恐ろしさである。そして『冥界』にいる女性たちの魅力である。
『冥界』のイメージの豊かさは、これまでヒットした宮崎作品でも、何度となく出てきた。たとえば『千と千尋の神隠し』にある豊かなイメージである。
『冥界』にいる女性たちの魅力も、これまでの宮崎作品で見たことがあるような気がする。あまり書くとネタバレになるので、詳しくは書かないが、多くの物語の少女の主人公とか、『紅の豚』のジーナとか、『天空の城ラピュタ』の女空賊のドーラとか、そのオリジナルのイメージはここにあったのかと思わされた。
また『冥界』に至る門に書かれた言葉も興味深かったかった。うろ覚えだが、門には「これを学ぶものは死す」と書かれていた。これは『冥界』のイメージの恐ろしさとも関係する。物語の前半で、これは主人公がシャドーがテーマだな、とわかったが、『冥界』への門をくぐり、いろいろ大変なことがあって(ここは大変見ごたえがあるが省略)その『冥界』から戻ってきたときには、新しい命になっている。そういう話だった。
タイトルの話をする。『君たちはどう生きるか』と言うタイトルだが、これはあまりピンとこなかった。私はには『少年とアオサギ』と英語版のタイトルの方がしっくり来た。これは宣伝広告が皆無のめずらしい作品だが、もしあえてコピーをつけるなら「僕たちはこう生きた。君たちはどう生きるか?」だということだ。
自分はこういう風に生きてきた。それで君はどう生きるのか
そのように問いかけられている映画だ、というのが、まとめの感想である。子供も楽しめる映画らしいが、この問いかけの方が大人には刺さる。
【追記】
この記事を公開したあと、勧めてもらって、NHKのプロフェッショナルのアーカイブを観た。やっぱり、脳みそのフタを開けて、狂気の境目まで行っていたんだ。そして、大伯父とのやりとり・・・。なんかよかったです。
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