28.日記 「仏の顔も三度まで」の由来に驚いた

「仏の顔も三度まで」の由来に驚いた

お正月にお寺さんからいただくパンフレットにとても興味深いことが書かれていたので、ご紹介します。参考にしたのは、作家で住職の玄侑宗久さんの文章です。

*個人的に私は、お釈迦さまは、宗教者というより、2500年前の哲学者、心理学者、医者という立ち位置の人だったと思っています。そのスタンスで書いています。ご了承ください。

「仏の顔も三度まで」の一般的な意味とは

ことわざの辞典によると、江戸中期から使われたことわざだそうです。「仏」は穏やかでめったに怒ることのない者のたとえで、「も」でいっそう強調されています。用例をみると、二度までは許しても三度目はただではすまない、起こりだすぞ、というと警告だと言われています。

「仏の顔の三度まで」の由来となった話では、結末が違う

ところが、この話の由来となったもとのお話は、ちょっと違うというのです。これからそのお話を紹介しますね。

昔、まだお釈迦さまが生きていらした時代、故郷である釈迦国が隣国のコーサラ国に攻められる。お釈迦さまは相手方の軍隊が通る道にすわりこみ、三度までは説得して、その進軍を止めた。しかし、四度目は出ていかず、ついに釈迦国はコーサラ国に滅ぼされた。

つまり、四度目は、お釈迦さまは怒ったのではなく、諦めたと言えるだろう。ではなぜ釈迦国は攻められたのか、その「そもそもの原因」について、お話にはこうある。

攻めたコーサラ国王の母親は、釈迦国出身でした。しかし、その母親は、釈迦国の重臣によって身分を偽装された女性で、一人の重臣の家の下女に高貴な服装を着せ、コーサラ国の前国王のお妃として送り込まれた。当時の釈迦国にどういう意図があったのかはわからない。しかし、当時から厳しいカースト制度のあるインドで、このやり方がとても問題であることは容易に想像できるだろう。

実際、身分を偽装された妃から生まれたコーサラ国王は、物心ついたころにそのことに周囲から気付かされ、いじめられた。以来、釈迦国を強く恨んだ。それが、自分が国王になったとき、たび重なる侵攻につながった・・・という話である。

他者の凝り固まった心を緩めることは、お釈迦さまでも難しい

コーサラ国が四度目に釈迦国を攻めたとき、お釈迦さまが諦めたことについて、こんな会話があった、と言われている。

弟子「どうして、今回は侵攻をお止めにならないのですか?」
お釈迦さま「お前は、宿縁(積み重なった縁、この場合は恨み)を無にすることができるか?」

お釈迦さまは自分の出身国に「非」があることを知っていた。だから止めることを諦めた。そして、釈迦国はついに、お釈迦様が生きているうちに滅ぼされてしまう。

難しいが、不可能ではない。ここからお釈迦さまのもう一つの冒険が始まった

暗い話になってしまいました。でも、そうとも言い切れないと私は思っています。

別のお話では、若きお釈迦さまが悟りを開いたとき「この教えを他者に伝えるのは難しいから、なにもしないでおこう」と最初は思ったとあります。けれども、梵天という神様から「いや、諦めないでちゃんと教えてください。あなたの教えが役に立つ人が必ずいますから」と強くリクエストしました。

それ以降、お釈迦さまは、他者に教えることを始めたと言われています。初めて弟子が悟ったとき(悟った弟子第1号です)お釈迦さまは「コンダンニャ(悟った弟子第1号の名前)が悟った!コンダンニャが悟った!」と大喜びしたそうです。

個人的には私は、お釈迦さまは、宗教者というより、哲学者、心理学者、医者という立ち位置の人だったと思っています。ものすごく頭の良い人で、恐ろしくロジカルだったんだろうな、と想像しています。そんなお釈迦さまが、自分の悟りだけで諦めないで、他者にも伝えるという、もう一つの冒険を初めてくれて、本当にありがたい、と心から思っています。

誰しも「難しいが、不可能ではない」ことに取り組みたい、と思うときがあるのではないかと思います。お釈迦さまですら、そんなチャレンジをしたのだと知ると、私などは勇気づけられる心地がするのです。


高橋左

このような記事をこれからも読みたい方は、こちらからメルマガ登録してください。あなたの人生をマインドフルネス&EQ&コーチングで整えるヒントをお届けします


無料メルマガの登録はこちらから


メールアドレス ※必須
名前(姓) ※必須