人生100年時代を予見する与謝野晶子の言葉
ライフシフト、つまり人生100 年時代を予見したかのような与謝野晶子の言葉です。
日本の教育は、青年の教育にばかりかたよっています。そのため、青年の思想はどしどし前に進んでいくのに、老人は一度若いときに教育されたきりで、その思想は過去のままにひからびています。社会の要が、老人と青年とで成り立つものである以上、両者の意思の疎通が行われなければ社会は順調に進歩しないわけです
『与謝野晶子 愛と理性の言葉』与謝野晶子
青年と意思の疎通のできる老人とは、過去の経験にすがる人ではなく、「いま、ここ」の「真実」を見抜けるような「智慧ある人」だ、ということなのだろう
私が老人を尊敬したく思うのは、老人がその豊富な経験を自慢せず、目の前の真実に対する実感を大切に生きようとしているときです。新しく流動的に生きようとしているときです
『与謝野晶子 愛と理性の言葉』与謝野晶子
認知的発達と、社会的・感情的発達について。そして「すべてのものに正当な居場所を与える」ことについて。ラスキー読書会から
今朝もラスキー博士の読書会があった。
ラスキー博士による発達測定インタビューでは、まず認知的発達測定のインタビューからはじめる。理由は社会的・感情的発達より、インタビュイーの抵抗感が少ないからだ。「社会的・感情的」領域とはつまり、人間関係において、自分がどう考え、どう感じるかを扱う領域である。この領域は、インタビュイーが、思った以上にセンシティブになる可能性がある領域だ。だから、心理的安全性の構築のために、まずは認知的発達測定のインタビューからはじめるのだ。
発達論というと、発達段階が高ければ高いほどよい、いわゆる「Higher is Better」という枠組みに足を取られがちになる。しかし、インテグラル理論でも言われるように、人の内面の見えない世界においても「すべてのものに正当な居場所を与える」ことの方がもっと大切だということを繰り返し思い出したい。なぜなら、自分の現在地がわからずして、どこかにたどりつく、ということはありえないからだ。
それでも「認知的発達」の試みは、まだ楽しいかもしれない。頭の体操のような感覚もあるだろうし、より「複雑な思考」ができるようになったら、嬉しい、という感覚も期待できるからだ。
しかし、「社会的・感情的」領域はそうはいかない。この領域で、発達してみようと試みるのにちょうどよい時とは、本人の内側に「痛みの感覚」や「覚悟」があるときだろうと思う。「ここを超えないことには、自分の未来はない」「この地平を超えたところに自分の活路がある」という感覚になったときに、初めて有効な試みとなる。理由は、自分の内側の「基礎・基盤」のぐらついているところを「補修する、地ならしする、整える」ような作業だからだ。