「仏」と「目覚めた人」
2つのアプローチについて書く前に、まず、仏教の「仏」とは何か、について、整理しておきたい。「仏」とは、もともと「Budda」(ブッダ)からきた言葉で、サンスクリット語で「修行を完成した者」や「目覚めた人」を意味する。 現在は、ブッダというと、仏教の開祖ゴータマ・ブッダのことを指すことが多いが、何も仏教だけに限らない。
2つのアプローチ
少しでも、目覚めの方向にいくためには、2つのアプローチがありそうだ。
たとえば、ここに悩んでいる人がいたとする。その人が楽になるのを助けるアプローチは2つある。ひとつは、その悩みにフォーカスすることよく聴いたり、何かしらワークしたり。これはPさん方式。Cさん方式。もう一つは、その悩みを横において、実践練習をすること。これはIさん方式、Nさん方式。
一つ目は、解像度をあげる戦略。もう一つは、内面化されたパターンの外に出る戦略。2つの極を「ええ塩梅に、いったりきたりする」ことで、解放と統合が起こる。これで結果的に、目覚めの方向にまた一歩進むことになる。
私たちは、お釈迦さまにはなれないが「目覚め」の方向に進むことはできる
人は、お釈迦さまにはなれない。これは、お釈迦さまが偉すぎるからではなく、私があなたになれないのと同じ理屈である。しかし「仏=Budda =目覚めた人」の方向になら、誰でも歩むことができる。
どうやって、それが可能か?
ひとつめは、悩みを通して、目覚めることができる。実は、お釈迦さまがブッダになったきっかけは「悩み」だった。お釈迦さまは、何ひとつ不自由のない、王族の暮らしをしていたが、それでも悩みはあったのだ。
実は、悩みがなくても「目覚め」の方向に進むことはできる。それは、自己観察を通じてだ。解像度をあげて、自己観察する。自己観察を通じて内面化されたパターンに気づき、その外にでる。
そしてこれは仮説なのだが、そこで大切になのは、2つのアプローチを「行ったり来たりする」ことだと思えることだ。忘れたくないのでメモしておこう。
インテグラル理論の四象限も忘れずに意識していたい
インテグラル理論でいうと、この自己観察は主に左上象限の活動になるだろうが、実は、左下、右上、右下象限を考慮することが、自己観察を深めるためには、必要になってくる。
一般的に、そして、私もだが、自己観察というと、意識は、ケン・ウィルバーのインテグラル理論における左上象限に偏りがちだ。ある禅の老師が「社会システムをよく観察することが大事です」とおっしゃったのが驚きだった。禅とは、世間から距離を置いて、自己の内面つまり左上象限に取り組むことだと思い込んでいたからだ。
しかし、すべてのことはお互いに関係し合っている。老師は言った「システム(右下象限)をよく観察すれば、どこにアプローチしたら良いかがわかります」