日本人の「思いやり」の世界への影響力が小さいと感じるのはなぜ?

7月13日、米国スタンフォード大学で開発されたコンパッション(思いやり)・プログラムのトレーナーをしているエミリー・ライトさんの講演を聞きにいきました。

このプログラムの目的は、個人または社会における「思いやり」の気持ちの育成と利他主義の推進です。同時に、徹底した研究、科学的協働作業、学術会議も行う、と書かれています

詳細のリンクはこちら(英語)

同志社大学の留学生向けビジネススクールの講義として、「思いやりの科学」というタイトルで一般にも公開されました。

コンパッションとは「思いやり」のこと

コンパッション(compassion)を日本語訳は、いろいろあります。「慈悲」「同情」「あわれみ」それに「思いやり」などです。

歴史上も、さまざまな宗教で扱われてきました。例えば、仏教的には、観音様のイメージ、キリスト教的には、「良きサマリヤ人のたとえ」のイメージ。世界中に扱われてきているのは、生きていくうえで、欠かせない要素だからでしょう。

個人的には「思いやり」が一番身近でしっくりくるなと思います。「慈悲」は宗教的すぎる、「同情」「あわれみ」はいわゆる「上から目線」な印象があるからです。

ということで、「世俗の人」である私が、中立的に表現するこのブログでは、コンパッションを「思いやり」と訳することにします。

そして、ここで「思いやり」というときは、ただ「感じのいい人」「気遣いのできる人」以上の意味を持たせたいと思います。

「思いやり」の定義

さまざまな定義がありますが一つだけ紹介します。

「思いやり」とは:
人間関係の中で起こる過程で、相手の苦しみに気付き、相手の感情の動きを感じ、その苦しみが軽減あるいは取り除かれるよう、何等かの行動を起こすこと。(Kanov, Maitlis, Worline, Dutton, Frost & Lilius, 2004).

なぜ「思いやり」を扱うのか

世界で実践されている、世俗の人向けのマインドフルネスプログラムは、「思いやりがある人になる」ことを目指しています。

このスタンフォードのプログラムもそうですし、サーチ・インサイド・ユアセルフ(以下SIY)の2日間のプログラムの仕上げは「思いやりのあるリーダー」になること、なんです。

「思いやり」を育てることは、もはや贅沢なことではなく、必要なことだ・・・もし人間という種を滅したくないならば(ダライ・ラマ)

日本人はかなり「思いやり」を持っていると思うのに、世界であまり発揮されないように見えるのはどうしてなのだろう?

2013年、SIYの2日間プログラムに初めて参加したとき、素直に感じた疑問が、これでした。

日本人はかなり「思いやり」を持っていると思うのに、それが世界であまり発揮されないように見えるのどうしてなのだろう?私なりにいろいろ考えてみました。

・言葉の問題(英語の壁)?
・日本が安全な島国で、諸外国との文化の壁が大きく、「人類みな兄弟」のような考え方が通じにくい?
・和を尊ぶあまり、個人を確立するプロセスを十分に経ていない(空気を重要視する)。個の概念が明確で強い外国とのコミュニケーション・ギャップが生じる?
・・・・・

今は、答えを出すのを急がず、じっくり考えていきたいと思っています。

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